上杉クリニック

当院では外来一般診療の他に、総勢医師10人体制で通院困難な患者様の定期往診も承っております。
定期往診の患者様には24時間、365日体制で緊急対応致します。

院長プロフィール

改めてご挨拶

開業して15年なります。
医師の紹介に写真を出した方が良いと言われたので、思い切ってちゃんとした写真を載せてみました。
が、実物はもっと男前でハゲてません。

  • 京都大学医学部卒業
  • 京都大学医学部附属病院
  • 公立豊岡病院
  • 京都大学医学部大学院(博士号取得)
  • 米国留学(ノースカロライナ大学医学部研究員)
  • 高松赤十字病院
  • 京都大学医学部附属病院(文部科学教官)
  • 目黒病院(総合診療科部長)
上杉クリニック

幼少期~大学

幼少期

世界遺産の姫路城で有名な姫路市出身です。岡山県ではなく兵庫県です。
姫路市民は岡山県?と言われると傷つきます。
姫路城は僕の記憶では花見ができる4月初旬がとても綺麗でお勧めです。内部も鉄筋ではなく木造のままで見応えが有ります。
関東に来て15年以上になりますが、関西なまりが全く抜けていません。愛嬌で許してください。

子供の頃は、やんちゃ坊主でした。
近所では、「上杉の下の子(私)みたいになったらあかんで。」とやんちゃ坊主の代名詞のように言われてきました。
小学校6年間で母親が学校に3、4回呼び出されて注意を受けた記憶が有ります。
中島先生、大変ご迷惑お掛けしました。
ちなみに兄(クリニックの事務長しています)は優等生で生徒会長にも選ばれていました。

姫路城

小学生の頃は、ソフトボール・野球をやっていました。
球は決して速くありませんでしたが、左利きでコントロールが良かったのでポジションはいつもピッチャーでした。
できたばかりの野球チームのキャプテンもしました。
勉強はできませんでしたが、スポーツはそこそこ得意な小学生でした。

中学校~高校時代

中学生になり、兄の影響もありまともになりました。
高校は愛媛県松山市の私立愛光高校に越境し、下宿生活をしていました。
当時は男子校で、毎日2時間目と3時間目の間に、全校生が運動場に出て、冬でも裸で体操する中間体操という行事が有りました。今は共学になってしまい裸ではないと思いますが。

松山はのどかで高校も比較的自由、門限の無い下宿生活でもあったせいかのびのびと高校生活を過ごすことができました。
今だから言えますが、大街道通り近くの愛光生行きつけ?のスナック「ぎんぎつね」に度々お世話になり、安い値段で飲ませて頂きました。
ママさん、もうかなりご高齢になられていると思いますが、お元気かな?
せっかく親が送ってくれた仕送りをスナックの飲み代に使っていました。
父上、母上御免なさい。

ちなみに上杉クリニックの法人名は「愛光会」です。
勝手に母校の名前をパクリました(関西弁の「パクる」は盗むです)。
愛光高校の皆様、卒業生にも拘わらず全く寄付等していませんが見逃して下さい。

当時の愛光高校は、毎年東大に50人位、医学部に100人位進学する一応進学校であったので、私も医学部に進学することになりました。
松山では、お城自体は姫路城ほど大きくありませんが、お堀と森林の調和が素晴らしい松山城がお勧めです。

大学時代

大学時代も医学部の準硬式野球をやっていました。やはりポジションはピッチャーで、勉強もせず野球に明け暮れていました。当時の京大は、殆ど授業に出なくても試験さえなんとか通れば、留年しなくても良かった幸せな時代です。しかし、あまりにも自由な為、同級生の2~3人は音信不通の行方不明になります。当然留年となり、3年下の学年位にひょこっと復学します。
京都では、大学時代に何度か行った嵐山の竹林の小径から嵯峨野の化野念仏寺・まゆ村辺りが、非常に落ち着いた雰囲気で私のお勧めスポットです。
写真は大学時代に従弟と兵庫県北西部、吉永小百合さん主演の「夢千代日記」で有名になった湯村温泉を訪れた時のものです(今となっては全く面影は有りません😱😱😱)。
隣のハンサムは私が尊敬する叔父で、子供の頃、橋やダムの設計図を製図板に画くのを横で見ていて、将来叔父のような建築家になろうと真剣に思っていました。本当にお世話になり感謝してもしきれません。

毅彦 大学

外科医時代

大学を卒業し、外科に入局しました。
京大病院で研修後、兵庫県の北にある当時約600床の公立豊岡病院に赴任しました。

海🌊と温泉♨とスキー場🏂とゴルフ場⛳が全て30分以内に有り、すぐ近くに有名な但馬牛と松葉ガニ(ズワイガニ)の産地、サムソナイトのスーツケースの工場が有ります。

半径50km以内に大きな総合病院が豊岡病院しかなく、マムシに咬まれた、自分で捌いてフグ中毒、オコゼやウニ、スズメ蜂に刺されたから海に沈んでいた土左衛門まで何でも運ばれてくる病院でした😱

京都大学

都会の病院とは違い、他に病院が無いので100%受け入れします。よく言う”たらい回し”は田舎では有り得ません。
おかげでいろんな症例が経験でき学ぶことができました。ほとんどの科が毎日ポケベル待機当番制を引いており(無給ですが)、外科では私を含め研修医上がりの下っ端の3人が毎日順番でポケベル待機し、緊急手術が有れば呼び出され、上司の指導の元、執刀させてもらえる外科医としては非常に恵まれた病院でした😊

金子先生、青木先生、武鎗先生、大変お世話になりました。
滅茶苦茶忙しかったですが、遊ぶ所が近くに有ったので助かりました😉。
その当時は、外科が消化管や肝胆膵だけでなく、甲状腺や乳癌も手術していたので、腹部の手術だけでなく甲状腺や乳癌の手術も多数執刀しました。
豊岡では城崎温泉日和山水族館(現在は城崎マリンワールド)のアジ釣りがお勧めスポットです。

大学院~アメリカ留学

大学院

大学院では、異種移植や人工肝臓の研究をし、ねずみだけでなく、ピーグル犬、ブタ、ヒヒ等の大型動物を使って実験しておりました。
ヒヒの賢さを話し出したら長くなるので辞めておきます。少なくとも当時のうちの4歳の長女より賢かったかも😅長女御免。
後の博士論文となる論文が大学院の3年生の時に出来た為、3年生の終わりに留学先が決まりました。
本当は先輩が行っており、2度ばかり訪問し、ビールと街並みに憧れていたミュンヘン大学に留学したかったのですが、スイスの学会で私のボスが留学先となったノースカロライナ大学の教授とパワーブレックファーストし、スイスでは断った筈なのに帰国したらアメリカに留学が決まってました。
結果オーライでしたが😊

ネズミ

アメリカ留学

大学院4年生の夏に、バスケットで有名なマイケル・ジョーダンの出身校で全米一古い州立大学のノース・カロライナ大学に留学しました。
留学先では、ネズミの胃に胃瘻チューブを入れて、1か月~2ヶ月の間、アルコール入りの高カロリー栄養を持続的に投与し、アルコール性肝障害の実験をしていました。
ねずみにアルコールを入れ続けると、1週間でアル中になります。
実験中は、アル中・心不全でねずみが死なないように、夜中にも大学に行き、ねずみの状態を確認する必要が有りました。ちなみにねずみの採血はしっぽからします。
大学のあるチャペル・ヒルは全米一住みやすい街に選ばれた事があり、夜中でも女子大生がジョギング出来る安全な街でした。
夜中でも安全で1人で大学に行くのは困らなかったのですが、一度真夜中にポリスにスピードガン打たれ、捕まりました。真夜中にスピードガン打つなんて常識疑います😤アメリカでは月2400ドル(24万円)位の月給だったので、100ドル位罰金取られ痛かったです。
運良く1年目に論文が出来た為、その後の一年は旅行とゴルフをおもいっきり楽しむ事ができました😊
アメリカでは、多くの巨大博物館(スミソニアン)が殆ど無料のワシントン、ディズニーワールドのあるオーランド、自然豊かなロッキー山脈のヨセミテ国立公園などがお勧めです。
アメリカ近隣では、アメリカと全く違いパンや食事が美味しいカナダのケベック、海や遺跡がおもいっきり楽しめるカンクーンがお勧めです。
カンクーンでは、バスの運転手と口論となり、警察に連れていかれそうになりました😰もちろんスペイン語なので何を言っているか全く分かりません。長女が泣き出したので連れていかれずに済みました😊長女有難う。

帰国後~開業

2001年9月11日のアメリカ多発テロの2日前にアメリカから帰国しました😱
テロ事件の2ヶ月前にもニューヨークに遊びに行っていました。

留学から帰ってきて高松赤十字病院に赴任。
まさに中間管理職的な立場で、小間使いのように症例が充てられ年に予定手術約100件、また上の部長よりも声が掛けやすかったのか他科からの緊急手術依頼も多く、緊急手術約50件、併せて1年に約150件の全身麻酔の手術を執刀しました。

おかげで大学院・留学の5年半のブランクを2ヶ月位で取り戻せました😊
”恐るべき讃岐うどん”という本が有りましたが、まさしく実感しました。都会では1000円位するうどんより遥か美味しいうどんが200~300円で食べられます😊しかも朝から。飲んだ後の締めは当然うどんです。
おかげで、それまで年に2~3回しか食べていなかったうどんを1年に200回以上食べました。お昼は殆どうどんと言うことです。
森製麺、さかえだうどん、竹清うどん、病院食堂の皆様、有難うございました。時間が有ればまた食べに行きたい。

その後、京都大学病院に戻り、肝臓外科を主に担当していました。
私自身、体力には自信が有りましたが、周りのスタッフは体力だけでなく頭脳も私より遥かに優れた人ばかりでした。

ファミリー

大学では到底生き残っていけないことが明白でしたので、開業を決意しました。
外科時代も糖尿病や心不全、喘息の患者様も手術するので、それなりに知識は有りましたが、開業前に内科も含めた総合診療の勉強をしたかったので、目黒区の目黒病院に赴任しました。
理事長先生、院長先生ともに非常に寛大な方で、総合内科9、外科1の割合で勉強しながら診療をさせて頂きました。
胃瘻挿入なども多数行いました。

平成18年6月に現在の上杉クリニックを開業することとなりました。